2014年8月30日土曜日

青い蛍石の産地と特徴

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会社の法務室に勤めていたとき、よく「弁護士や上の人にご説明したとき一目で分かる図や表」の作成を指示されたためか、仕事は関係なくても、ある程度情報やデータがたまると図や表、手順書などを作りたくなります。鉱物を収集するうち、漫然と収集すると、同じようなものが増えるし、うっかり変な買い物をしてしまうこともあるので、青い鉱物の特徴をまとめて、今後の収集の目安にしようと思いました。特に、蛍石は産地も多く、青いものだけでも特徴が様々なので、表を作りました。

記号は、A:高い、C:低い、です。とはいえ、私が持っているのはこの表の中のごく一部であり、持っていないものはオンラインの写真や価格を参照しただけなので、情報が不十分で、誤りもあると思います。また、中心的(と思われる)特徴と、価格を記しましたが、例外も多くあることと思います。 表は過信しないでくださるよう、お願いします。




スペイン、アストゥリアス地方の蛍石です。やはりこれは寒天系の和菓子のように見えます。青だと言い張るのは無理があるような、淡いグレーがかった水色です。でも、透明度が高く、ゾーニングも見え、表面はニスを塗ったのだろうか?と思うくらいつやつやしていて、気に入っています。夫が「そういうの、選択バイアスと言うんやで」と教えてくれました。

【追記】
twitterの蛍石収集家のお友達にお教え頂き、表を一部、修正しました。私など足元にも及ばない、すばらしいコレクションと知識をお持ちで、ブログもきれいな蛍石の写真が満載です。

2014年8月26日火曜日

ビーズの六十面体(20角星)



ギュスターブ・モロー「夜の女神、ニュクス」1880年頃

蛍石もそうですが、同じ形で、色と大きさにヴァリエーションをつけて飾るのが好きです。ビーズの六十面体を大・中・小と作ってみました。ビーズの長さは左から3cm,2.5cm,1.2cm,0.6cmです。作り方は「正多面体クラブ」を参照させていただきました。2個くらい作れば、制作自体は慣れてきますが、3センチのビーズで作ると、テグスが570センチに及ぶので、からまりそうになって厄介です。ただ、技術やセンスが問われるものではなく、100人が作ってもほぼ同じ仕上がりになる点がとても良いなと思います。技術やセンスを必要とするものは、見られるレベルに到達するまでに莫大な色々を要するので、想像するだけでめげてしまい、自分でやってみたいとはあまり思いません。

ところで、この形は正式に何と言うのだろうか、と調べてみると、六十面体すなわち正二十面体の星型Bであろうとは思うのですが(Wikipedia)、星型多面体の説明を読むと難しげな数学っぽいことが書いてあって、よく分かりません。星型多面体がこんなにたくさんあるのは、興味深いです。

【薄明かりの絵画】モーリス・ドニとシダネル


モーリス・ドニ「イヴォンヌ・ルロール」1897年

【ナビ派】
1868年に、ルドルフ・ジュリアンによりパリ芸術アカデミーの予備校としてアカデミー・ジュリアンが設立されました。ブーグローやジュール・ルフェーヴルが教鞭をとり、学生はローマ賞にも応募できる、名門美術学校でした。

1880年代に、アカデミズムに反発し、ゴーギャンを模範とした、アカデミー・ジュリアンの学生数人が「ナビ派」を組織しました。「ナビ」とはヘブライ語で「預言者」の意味で、古代の預言者がイスラエルを奮起させたように、新しい表現様式を生み、芸術の活性化を目指しました。後期印象主義や象徴主義、アール・ヌーヴォーの影響を受け、絵画だけでなく、ポスター、イラスト、テキスタイル、家具のデザインなど、幅広い活動をしました。芸術と日常生活の融合を目指したという意味では、イギリスのアーツ&クラフツ運動にも通じます。ゴーギャンやセザンヌのような色彩と、平面的な表現に特徴があります。中心となったのはポール・セリュジエで、メンバーにはフェリックス・ヴァロットンや彫刻家のマイヨール、マクシム・ドトマ等がいます。モーリス・ドニ、ボナール、エドワール・ヴィラールが有名ですが、ナビ派としてはむしろ辺縁にいたようです。

なお、ナビ派は短命で、1896年には解散し始め、メンバーはそれぞれ独自に活動しました。20世紀に入り、抽象美術、フォーヴィズム、表現主義などが現れると、ナビ派は保守的だと言われるようになりましたが、モダニズムに大きな影響を与えました。

ドニ「木の葉の中の梯子」1892年、ドニ美術館

【モーリス・ドニ】
ナビ派の色遣いは、鮮やかな原色、またはアースカラーが多いと思いますが、ドニは澄んだパステルカラーが美しいです。アカデミー・ジュリアンとパリの芸術アカデミーに学び、ジュール・ルフェーヴルに師事しました。風景画や、自分の家族をモデルとした母子像も多く描いていますが、特に宗教画に注力していました。1922年に『近代芸術と宗教芸術の新理論』を発表しました。
「絵画とは、一定の順序で組み立てられた色彩でおおわれた平面である」
 という言葉に表されるように、絵画の平面性を強調し、これはモダニズム(キュビズム、フォーヴィズム、抽象芸術)の出発点となりました。ドニは、「伝統的表現と技巧のために感情を犠牲にしている」としてアカデミズムを批判し、「音楽というよりも、散文だから」という理由でリアリズムも好みませんでした。神々しさの象徴として、「美」を重視していました。

シダネル「シャルトルの主教の家」1913年、個人蔵

シダネル「夕暮れのテーブル」1921年、大原美術館
【アンリ・シダネル】
シダネル(1862-1939)は、ナビ派のメンバーではなく、ドニとも関係がありませんが、ボナールやヴィラールのように、「親密主義」と言われることがあります。親密主義は、主に家庭の室内を絵画の主題としました。印象主義のように、点描法により、光と一瞬の時を表現しました。印象主義が、厳密な観察に基づいて色を用いたのに対し、親密主義は、豊かな感情表現のために、自然な色を強調したり、変更したりして描きました。シダネルは、夕暮れの情景を好んで描いた画家です。1880年から30年以上、エタプルの芸術家コロニーに参加しました。同コロニーは200人程度の多様な画家が集い、「エタプル派」などと称するには幅が広すぎるようですが、エタプル芸術家コロニーの一つの傾向は、Édouard Lévêqueが「オパール色の海岸」と表現しています。これは、シダネルの作品にも当てはまると思います。陽光ではなく、夜や夕暮れのほのかな明かりが特徴的です。シダネルの作品を見ると、私は『失われた時を求めて』を思うのですが、プルーストはシダネルを「卓越しているが、偉大な画家ではない」と評しています。

シダネルの作品を「人の気配はあるが描かれていない」と紹介されている方がいらして、なるほど、と思いました。薄明かりの絵画(というジャンルはありませんが)は、微妙な光の表現はもちろんですが、日中の光、人の気配、追憶、といったそこに描かれていないものごとに思いを至らせるような余韻を感じさせるのが魅力だと思います。

【一応のまとめ】
19世紀のイギリス、フランス、ドイツ、オーストリアの絵画史をかじってみて、一応まとめのようなものを挙げますと、
  • 中世や初期ルネサンスのリヴァイヴァル
  • 精神主義や神秘主義への傾倒
  • 反アカデミズムから出発した動きの、アカデミズムへの融合
  • 類似した動きが国をまたがって起こっている
があるかと思いました。目新しくもおもしろくもない結論ですが、広げすぎた風呂敷をうまくたためそうにないので、このまま逃げたいと思います。長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。

2014年8月25日月曜日

【薄明かりの絵画】ミュンヘン派

ガブリエル・フォン・マックス「タンホイザー」1878年頃、ワルシャワ美術館
 【ミュンヘン派の指導者】
19世紀ドイツのアカデミズムは、デュッセルドルフ派もありますが、その期間は1819-1918年に及び、「デュッセルドルフ派」と分類される画家は4,000人に上ります。100年間の長期間に輩出された数千人という画家が、一つの傾向によって分類できるか疑問ですし、多すぎて手に負えないので、取り上げないことにします。ミュンヘン・アカデミーを中心とする「ミュンヘン派」はカウルバッハとピロティが学長をつとめた1850-1918の期間で、代表的な画家は100人もいるわけではありませんが、温かい雰囲気の子供の絵の画家、ゲオルク・ヤコビデスや、神秘主義にも傾倒したガブリエル・フォン・マックス、ウィーンで一世を風靡したハンス・マカルトの興味深い作品があります。

ミュンヘン・アカデミーの学長は、1849年にカウルバッハ(1805-74)が就任しました。また、1856年に教授となり、74年にカウルバッハの後任として学長になったカール・フォン・ピロティ(1850-1918)はミュンヘン派を率いる存在でした。カウルバッハは、ナザレ派のペーター・コルネリウスの後任であり、中世リヴァイヴァルの壁画やフレスコ画を描いています。ピロティは、ミュンヘンアカデミーで学び、風俗画や歴史画を得意とし、ミュンヘンの王宮の壁画を描きました。当時、ドイツのリアリズム美術を代表する画家でしたが、今日ではむしろ教師としての評価が高いようです。弟子にヤコビデス、マカルト、フォン・マックス、レンバッハ等がいます。

【ガブリエル・フォン・マックス】
ガブリエル・フォン・マックス(1840-1915、墺)はプラハ、ウィーン、ミュンヘンのアカデミーに学びました。ミュンヘンアカデミーで教鞭をとり、後年は貴族に叙されました。抑えた色彩で、宗教的もしくは、神秘的・象徴主義的な作品を描きました。超心理学、ダーウィニズム、アジア哲学に傾倒し、神智学協会の会員でもありました。先史時代の民俗学に関する大きなコレクションを所有し、ペットとしてたくさんのサルを飼育し、時には擬人化した姿で、サルの絵も多く描きました。ピロティの弟子ですが、風俗画や歴史画はのこしていません。

ガブリエル・フォン・マックス「解剖学者」1869年頃、ノイエ・ピナコテーク

「解剖学者」は、きわどい絵だと思います。死んだ少女は清らかで美しいですが、この後当然解剖されるわけで、ぞくりとするものがあります。若くはつらつとした女性と並べて骸骨を描いて「メメント・モリ」という絵は時々ありますが、夭逝した少女の、その先、しかも宗教に関連した抽象的な話ではなく、現実をこのように描写するのは珍しいです。

ガブリエル・フォン・マックスは、白い壁やベッドを背景に、白い服の聖女や預言者を描いた絵があり、いずれも独特の病院のような雰囲気があります。


【ハンス・マカルト】
ハンス・マカルト(1840-84、墺)はウィーンアカデミーに学びましたが、才能がない、と言われて退学になり、ミュンヘンでピロティに師事しました。後にウィーンに戻り、絵画の他、家具やインテリア、衣装のデザインも行いました。1870年代には売れっ子となって「マカルト様式」という言葉が生まれたほどでした。1879年の、フランツ・ヨーゼフ皇帝と皇妃エリザベートの銀婚式では、パレードの背景や衣装、車をすべて一人でデザインし、自ら白馬に乗ってパレードを先導しました。この「マカルトパレード」は1960年代まで、ウィーンの名物だったそうです。ガブリエル・フォン・マックスが古代の珍品やサルに囲まれて暮らしたところ、マカルトは彫像や楽器、宝石などを収集し、そのアトリエは美の殿堂のようだった、とヴァーグナー夫人は記しています。皇帝から寝室のデザインを請負いましたが、制作途中で亡くなりました。

マカルト「眠れる白雪姫」1872年
 マカルトは「色彩の魔術師」といわれ、他に類を見ないような鮮やかな色彩と流れるような形が特徴的です。歴史的な主題を舞台の演出のように表現することを得意としました。彼が親交を結んだヴァーグナーのように「総合芸術」の実現を目指していて、パレードはその成果だったといえます。フランスの、ブーグローのライヴァルともみなされました。ウィーンの世紀末美術というと、クリムト(1862-1918)やエゴン・シーレが思い浮かびますが、その前はマカルト全盛期で、クリムトもマカルトから影響を受けています。

2014年8月24日日曜日

【薄明かりの絵画】象徴主義と唯美主義

カルロス・シュヴァーベ「夕べの鐘」1891年、リオデジャネイロ美術館


【象徴主義】
象徴主義は、1857年にフランスの詩人、シャルル・ボードレールが『悪の華』を発表したことに始まるといわれます。1860、70年代は、ステファヌ・マラルメとヴェルレーヌが象徴主義を牽引しました。象徴主義は、ロマン主義とは対照的な立場であり、「芸術は、間接的な描写のみによって表現可能な真実を表すべきである」という理念の下、自然や、写実ではなく、精神主義、想像力、夢を重視しました。隠喩的で、暗示的な表現が好まれ、特定の物やイメージに象徴的な意味を付与しました。これらは文学の象徴主義の特徴ですが、美術においても共通しています。象徴主義は、デカダン主義と混同されることがあり、文学においては、病的なもの、セクシュアリティ、タブーの取扱いに関して異なるようですが、美術に関しては、象徴主義とデカダン主義はそこまで明確に区別されるわけではないようです。

象徴主義美術では、神話や夢のイメージがよく扱われました。象徴主義の画家が用いたシンボルや暗示は、広く普及した寓意(平和=鳩、のような)ではなく個人的で曖昧な表現であることが多いです。特定の表現形式というよりは哲学のようですらあります。

象徴主義は、特にヨーロッパ大陸で流行した様式で、フランス、ドイツ、オーストリアの代表的な画家は以下のとおりです。フェルナン・クノップフ等のベルギー象徴主義も重要ですし、イタリアやロシア、東欧にも象徴主義の美術があります。

〔フランス〕
  • アマン=ジャン
  • ファンタン=ラトゥール
  • ギュスターヴ・モロー
  • オディロン・ルドン 他多数
〔ドイツ〕
  • マックス・クリンガー
  • カルロス・シュヴァーベ
  • フランツ・フォン・シュトゥック  他数名
〔オーストリア〕
  • グスタフ・クリムト 他

オズベール「夕べの歌」1906年、ナンシー美術館

オズベール「静かな水辺」1895年

【アルフォンス・オズベール】
知名度の高さから言えば、ギュスターヴ・モローやルドン、シュトゥックを取り上げるべきなのかもしれませんが、「青の画家」でシャヴァンヌの影響が色濃い、アルフォンス・オズベール(1857-1939、仏)の作品には、とりわけ薄明かりの絵が多いように思います。アカデミーに学んだものの、1880年代に後期印象主義の影響を受けてアカデミズムから離れ、点描を取り入れて、ギリシア風の女神のいる神秘的な風景を描くようになりました。印象主義と、象徴主義はあまり相容れないように思っていたので、スーラ等の点描技法と、象徴主義を同時に取り入れたという点が、興味深く思います。中世から続く秘密結社、薔薇十字団作家、ジョセフィン・ペラダンの主催する、Salon de la Rose + Croix薔薇十字サロンと関わりがありました。

カルロス・シュヴァーベによる薔薇十字サロンのポスター
〔訂正〕
Salon de la Rose + Croix は、作家であり、芸術批評家でもあったジョセフィン・ペラダンの主催した6つのサロンです。秘密結社の薔薇十字団にインスパイアされて組織され、カルト的宗教の一、という側面もありますが、むしろ芸術的な部分が強調されます。ペラダンは、「ヨーロッパ的物質主義を乗り越える、深遠な/神秘的な芸術の」地位向上をはかりました。アカデミズムや印象主義といった、当時のメインストリームと異なる、象徴主義を特に推奨しました。薔薇十字サロンでは、近代生活や自然主義的な風景、写実的な絵画は展示されず、アーサー王伝説、ルネサンス復興、E.A.ポーやボードレールの詩などをモチーフとした作品が好まれました。サロンには200人以上の音楽家や画家が関わり、ベックリン、クノップフ、ヤン・トーロップ、ガエターノ・プレヴィアーティ、カルロス・シュヴァーベらの作品が展示されました。

ウォッツ「希望」1886年、テート美術館
ウォッツ「希望」1891年、イェール大学イギリス美術館
同上、部分

【唯美主義】
大陸での象徴主義に近い、イギリスで流行した様式が唯美主義です。1867年にオクスフォード大学教授のウォルター・ペイターが「美を理想として生きるべきである」という論文を発表したことに始まります。「芸術のための芸術」を理想とし、芸術は、洗練された感性/官能に訴えるような喜びを提供すべきである、としました。これは、ラスキンやマシュー・アーノルドの、芸術は道徳的もしくは役に立つものであるべき、という立場とは異なります。とはいえ、ラスキンが支持したラファエル前派、特にロセッティやバーン=ジョーンズは唯美主義に分類される場合もあります。「自然は芸術と比べてがさつであり、美こそが芸術の本質である」という理念を持ち、ひたすら美を追求したのが特徴です。イギリスの唯美主義の画家には、ローレンス・アルマ=タデマ(オランダ出身)、レイトン卿、アルバート・ムーア、ウォッツ等がいます。彼らは、アカデミズムの画家であり、ラファエル前派からの影響も大きいです。イギリスのアカデミズムは、19世紀前半の、レイノルズ流の絵画と、後半の唯美主義の作品とでは、かなり趣きが異なります。重要な転換点の一つは、やはりラファエル前派であったのだろうと思います。

ウォッツの「希望」はテート美術館が所蔵している他、半分程度のサイズの物が、先日訪れたイェール大学の美術館に展示されていました。目隠しをした女性が、ハープに1本だけ残った弦を爪弾いているのは、希望の寓意的表現です。ウォッツは、「希望は期待を意味するものではない。本作ではむしろ、残った弦が奏でる音楽を意味する」と述べています。女性の頭上に、かすかな星が描かれています。本作は、ロセッティの「海の魅惑」や、アルバート・ムーアの「夢見る人々」、バーン=ジョーンズの「運命の車輪」に影響を受けているようです。

2014年8月22日金曜日

蛍石の箱


ベルリン自然史博物館。出典Wikimedia Commons

【薄明かりの絵画】は1回お休みです。

八面体蛍石は、ガラス瓶に保管すると涼しげできれいです。でも、硬度が低いので、カケが発生したりします。よほど手荒に扱ったりしない限り、ひどく割れることはないにしても、時々瓶から出してみると、小さな破片が含まれていて、もったいないと思いました。大きい物は特に、箱に陳列して互いにぶつからないようにするのがいいだろうと、誕生日に、夫に標本箱を買ってもらいました。ガラスの蓋付きです。鉱物の展示はいくつかの自然史博物館で見たところ、ベルリンの自然史博物館の陳列が最も見やすく、かつ美しいと思いました。黒背景の陳列は、宝石店のようでゴージャスですが、色が分かりにくいです。木枠にガラス戸、白背景の収納を真似したいと思いました。何百分の一の規模とはいえ、雰囲気だけは多少なりと取り入れられたかと思います。何も塗料が塗られていないのですが、ステインを一缶買って、箱に塗った残りを日本に持って帰りたいとは思わないので、当面はこのままにします。


 左半分程度はイリノイ産、その隣の青緑色系の4列がナミビア産、一番右の4個は産地不明です。ニューメキシコの深い青もきれいですが、八面体はなぜか非常に高価で手が出ません。このように並べると、一つ一つの形が際立つので、八面体がそれなりに整っているものを選び、小さいのと、歪なのは変わらず瓶に収めています。ダイヤ形が並んでいるのがアルルカンの衣装のようです。鉱山が閉山されて久しく、イリノイの八面体は流通が少ないといいますが、束で販売されていることが時々あります。他に買おうとしていたものが連続で「在庫を紛失した」という理由でキャンセルされた後に青や黄色の八面体セットを見つけました。私は、「値段の割にちょっといいな」と思うものを観賞用に買うと時が経つにつれて心底後悔するし、「高いけどいいな」というものを無理して入手すると、後々までその支出についてくよくよするので、絶対に欲しい!と思う、かつ値段的にも納得できる物を気長に探さないとダメだと思いました。スペースの空きの分は時間をかけて増やしたいと思います。

中の蛍石のいくつかも、夫が買ってくれました。夫は基本的には私のコレクションに無関心ですが、時々目を止めて、「おもしろいね。ええ趣味やねぇ」と言ってくれます。理解ある夫に感謝します。


【追記】
小さいのもペトリ皿に入れて並べてみました。紺色のはとても小さいニューメキシコ産です。少し前に買ったものですが、最近価格高騰著しいです。

2014年8月19日火曜日

【薄明かりの絵画】ラファエル前派


ウィリアム・ホルマン・ハント「無垢の勝利」1883年頃、テート美術館

【ラファエル前派の結成】
ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood、以下PRBと記します)は、1848年にロイヤル・アカデミーの学生だったジョン・エヴァレット・ミレー、ウィリアム・ホルマン・ハントと、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティその他数人の彫刻家や画家によって結成されました。ロイヤル・アカデミーの初代会長サー・ジョシュア・レイノルズと、レイノルズの流れをくむ、古典絵画、特にラファエロを模範とするアカデミズムに反発するものでした。ラファエロの、画家としての価値を否定していたわけではありませんが、「ラファエロ(英語読みでラファエル)以前の」中世や初期ルネサンスを理想とし、「ラファエル前派兄弟団」と名乗りました。画家グループが「兄弟団」と名乗る前例は、他に古代派と後にナザレ派となる聖ルカ兄弟団があります。

ロセッティ「至福のベアトリーチェ」1870年頃、テート美術館
【特徴】
PRBの理念や技法には以下のような特徴があります。
  •  中世の美術は、創造性と精神性において完全であるとし、理想視した。
  • 歴史、文学、中世騎士物語の主題を好んだ。
  • ジョシュア・レイノルズ式の絵画の、背景の曖昧な部分を黒っぽく塗る技法を「ビチューメント(黒い絵の具)の多用」であるとしてきらった。
  • 特に、ウィリアム・ホルマン・ハントとジョン・エヴァレット・ミレーは細部を非常に細かく描写した。ミレーが「オフィーリア」を描く際、10円玉ほどの面積を何時間もかけて彩色した逸話。一枚の絵の完成までに非常に長い時間をかけた。
  • ハントやミレーは、「クワットロセント美術」(中世後期、初期ルネサンスの美術。ヴェロッキオ、クリヴェッリ、フラ・アンジェリコ等)の技法を研究した。湿った白地に色を重ねる方法。結果として、宝石のような透明感と鮮やかさのある画面に仕上がる。
  • アカデミズムやクリックの画家から多くの批判を受けたところ、ジョン・ラスキンはPRBを支持し、援助した。ラスキンの影響もあり、細密で正確な自然描写を試みた。
  • 芸術の精神性を強調し、クールベや、印象主義と対立した。

J.E.ミレー「救助」1855年、ヴィクトリア国立美術館
【独自路線へ】
1850年に、ミレーの「両親の家のキリスト」がアカデミーに展示されると、「冒涜的である」等とディケンズやクリックから痛烈に批判されました。聖母が理想的な美しい若い女性に描かれていないこと、キリストが赤毛の子供として表現されていることが特に問題だったようです。中世趣味は古くさく、緻密に過ぎる細部描写も不快だと受け止められました。これに対し、前述のようにラスキンがPRBの擁護をしました。ラスキンは特にミレーを積極的に支援していましたが、女性関係でいざこざがあったため、ミレーとラスキンは決裂しました。ラスキンは後年のミレーの作品には批判的でした。ハントとロセッティも、モデルの女性をめぐりトラブルがあり、結果的にPRBは1850年代には実質的に解散状態となりました。その後、ミレーは大家族を養うために肖像画を多く受注するようになり、画風も変化しました。アカデミーの会員、会長(半年間だけ)もつとめました。もともと、PRBの考える中世芸術の精神性と、リアリズムとは相反するもので、ハント、ミレーがリアリズム路線を取った(とはいえ、クールベのリアリズムとは異なる)ところ、ロセッティは、中世風の理想を表現しようとしました。ロセッティの中世好みはバーン=ジョーンズやウィリアム・モリスに承継されました。ハントは、初期のPRBの理念に忠実で、何度もパレスチナへ旅行し、聖書の主題を緻密なタッチで描きました。

J.E.ミレーの「救助」は消防士が火災から三人の子供たちを救助するシーンです。この頃に、イギリスでは消火の仕事が民間ビジネスから行政へ移管され、財産よりも人名救助を第一とするようになりました。ミレーは、光を効果的に表現するため、色付きガラスを使ったり、板を燃やしたりしたそうです。

アーサー・ヒューズ「ガラハッド卿」1870年、ウォーカー美術館

バーン=ジョーンズ「夜」1870年

ウォーターハウス「聖セシリア」1895年
【影響】
PRBはハント、J.E.ミレー、ロセッティが中心メンバーでしたが、フォード・マドックス=ブラウンやアーサー・ヒューズはグループと親しく、画風も相通じており、美術史上はほぼ同一視されることが多いようです。唯美主義や象徴主義の先駆者でもあります。19世紀後半のロイヤル・アカデミーの会長は、1878年〜レイトン卿、1896年とそれ以降は、J.E.ミレーとエドワード・ポインターで、レイトン卿はPRBと交流があり、ポインターはバーン=ジョーンズの義理の兄弟でした。ウォーターハウスは、アカデミズムの画家ですが、PRBからも色濃い影響を受けています。反アカデミズムからスタートしたPRBですが、19世紀後半にはアカデミズムに浸透して行ったと考えられます。

2014年8月17日日曜日

【薄明かりの絵画】イギリスのアカデミズムとクリック

レイノルズ「キューピッドとプシュケ」1789年頃、コートールド美術館

 【ジョシュア・レイノルズ卿】
イギリスのロイヤル・アカデミーは、ヨーロッパの他の国よりは遅く、1768年に創立されました。初代会長にジョシュア・レイノルズ(1723-92)が就任しました。レイノルズは、ヨーロッパ大陸の新古典主義のように、ルネサンス(特にラファエロ)から学ぶことを重視しました。歴史画を頂点とする、「ジャンルのヒエラルキー」の設定にも一役買ったようです。主席宮廷画家でもあり、アカデミーと古典主義の重鎮でしたから、アカデミズムの権化のようにいわれ、ウィリアム・ブレイクや、ラファエル前派(PRB、後日取り上げます)などからの批判の対象となり、今日でもその評価が尾を引いているようでもあります。ただ、美術館でレイノルズを見ると、穏やかで安定感があり、ジェーン・オースティンの小説世界を彷彿とさせるようでもあって、なかなかいいなと思います。19世紀半ば頃までにロイヤル・アカデミーの会長をつとめた人は、他にベンジャミン・ウェスト、トマス・ローレンス、M.A.シーがいますが、彼らの画風はレイノルズによく似ていて、初代会長レイノルズの影響の大きさが窺い知れます。

リチャード・ダッド「黄色い砂の方へおいでよ」1842年、個人蔵

【リチャード・ダッドとクリック】
クリックは、ロイヤル・アカデミーの学生だったリチャード・ダッドがウィリアム・パウエル・フリス、H.N.オニール、オーガスタス・エッグらと組織しました。アカデミーの懐古趣味的な伝統は、同時代の芸術に対する要請にそぐわないと考え、歴史画よりも風俗画を好みました。スケッチのクラブから出発したのですが、「芸術は、アカデミズムの理想ではなく、大衆により良し悪しを判断されるべきである」という理念の下、メンバーは同じ対象をスケッチして、絵の専門家以外に、どのスケッチが優れていると思うか、と尋ねました。ホガースや、デイヴィッド・ウィルキーを模範とし、ここにもレイノルズへの反発があったようです。反アカデミズムからスタートしたものの、リチャード・ダッド以外のメンバーは後に画家として成功し、ほとんどがアカデミーの会員となりました。

リチャード・ダッド(1817-86)は薬剤師の息子として誕生し、仲間内でも最も才能があるとみなされていましたが、1842年頃、妄想にとらわれ、暴力的になるなど人格が激変しました。父親が悪魔の化身であると信じて殺害し、国外逃亡を試み、その途上で別の人を殺そうとしたので、逮捕され、精神病院に入れられました。ここに至るとクリックは解散しました。入院中も絵を描き続けましたが、退院することなく、精神病院で生涯を終えました。ダッドの作品は、オリエンタリズムや、妖精を描いたものが多いです。細部が非常に微細に描かれていて、見ていると焦点が合わなくなってきます。日頃、作品を鑑賞しても製作者の人柄や性格などそうそう分かるものではないと思っているのですが、ダッドの作品からは狂気を感じざるを得ません。

「黄色い砂の方へおいでよ」はシェイクスピアの『テンペスト』に題材をとっています。影が赤いのは画像の問題かもしれませんが、大勢で踊りながら明るい方へと向かっているのに、楽しさよりも気味の悪さを覚えます。

フリス「ロイヤルアカデミーの内覧会、1881年」1883年、ロイヤルアカデミー

【PRBとの対立】
PRBが結成された1848年には、組織としてのクリックは解散していたものの、元メンバーのウィリアム・パウエル・フリスや、H.N.オニールは、PRBの絵画がエキセントリックで原始芸術的である、として厳しく批判しました。クリックと多少の接触があったディケンズも、J.E.ミレーの「両親の家のキリスト」を痛烈に批判しました。「ロイヤルアカデミーの内覧会」は薄明かりのテーマからは外れますが、クリックの絵画の例です。フリスは、このように100人ほどの人が集まっている場所の絵を得意としていたようです。本作には、リリー・ラングトリーやオスカー・ワイルド等、ヴィクトリア朝の有名人の姿も描きこまれています。

なお、クリックの理念は、1860年代にコールドロンらを中心とした「セント・ジョンズ・ウッド・クリック」 に承継されますが、こちらはPRBからの影響も強く受けました。

エッグ「過去と現在1『不運』」1858年、テート美術館

エッグ「過去と現在2『祈り』」1858年、テート美術館

エッグ「過去と現在3『絶望』」1858年、テート美術館

【エッグ「過去と現在」】
オーガスタス・エッグの「過去と現在」三部作は他のところでも何度が紹介しているので、いい加減しつこくてすみません、という感じなのですが、薄明かりの絵としても、ストーリー的にもおもしろいです。

1「不運」中産階級の夫人の不倫が発覚したシーン。芯が虫食いの半分に切ったリンゴ、崩れるトランプの家、壁に掛けられた楽園追放の絵、鏡に写った開いたドアが彼女の運命を暗示する。本作は、ウィリアム・ホルマン・ハントの「良心の目覚め」に着想を得ている。

2「祈り」1枚目でトランプで遊んでいた少女たちの、母親が家を追い出されてから数年後、姉妹は父親をもうしなった。1枚目に描かれているのと同じ、両親の肖像画が壁に掛けられている。

3.「絶望」2枚目と同じ日時、追い出されて橋の下にいる母親。不倫の子を抱いている(既に死んでいるかもしれない)。頭上の壁には、不幸な結婚をテーマとした芝居のポスターが張ってある。

オーガスタス・エッグはクリックのメンバーとしては例外的に、ラファエル前派を賞賛し、ハントと親交を結びました。ディケンズとも親しく、ディケンズの文学に倣い、道徳的・社会批判的な絵画を描いています。

2014年8月16日土曜日

【薄明かりの絵画】ビーダーマイヤー

 【ビーダーマイヤーの概要】
メッテルニヒの政権は、1815-48の間、続きました。「ビーダーマイヤー」とはその時代をではなく、その間の独自の芸術的気運を言います。ビーダーマイヤーの原動力は、
  1. 都市化、工業化の進展により、郊外の中産階級が誕生し、芸術の新たな鑑賞者となった
  2. メッテルニヒ政権による政治的抑圧
があり、結果的に芸術家は、(少なくとも表向きは)安全な領域にとどまり、家庭的で非政治的な題材を主に取り上げました。絵画のみならず、文学、音楽、建築、インテリアデザインをも含みます。また、ビーダーマイヤーは、デンマークにおける「デンマーク黄金期」に呼応します。

【特徴】
オーストリアにおけるビーダーマイヤー絵画は、センチメンタルで敬虔な情景を写実的に描写しました。社会批判的な主題は回避され、深い信仰、単純さ、安全さ、居心地の良さなどを含む主題が好まれました。テクニック重視の傾向もあったようです。

ビーダーマイヤーに分類される画家は多く、画像もオンラインでたくさん見ることができますが、どちらかというと明るい日の光が好まれたようで、薄明かりという感じの絵は少ないです。

ヴァルトミュラー「恋文」1849年

シュピッツヴェク「スペインのセレナード」1856年頃、シャック美術館
【ヴァルトミュラーとシュピッツヴェク】
ヴァルトミュラーとシュピッツヴェクは、それぞれ、オーストリアとドイツにおけるビーダーマイヤーの代表的な画家です。

フェルディナント・ヴァルトミュラー(1793-1865)はウィーンのアカデミーに学び、後にその教授となりました。人の顔の性格や、触感の描写に優れ、人々の日常生活を説明的・道徳的な作品に表現しました。同時代の芸術家に大きな影響を与えました。ところで、電灯が発明される前、夜にランプやろうそくの光を下から当てるのは、普通の日常的な光景であり、ダービーのジョゼフ・ライトにもこういった光の作品がありますが、私はどうしても子供の頃に顔の下から懐中電灯を当てて遊んだ「お化けごっこ」を思い出してしまいます…

 カール・シュピッツヴェク(1808-85)は美術学校へは行かずに、フランドルの画家の作品を模写することにより独学で絵画を学びました。風刺画からスタートし、ユーモラス風俗画で人気を得ました。1930年代には、シュピッツヴェクの作品の贋作事件もありました。「スペインのセレナード」によく似た、数人の人たちが夜に街頭で楽器を演奏している絵は、他にも何枚かあります。

F.シェーン「おばあさんのお話」1845年

2014年8月14日木曜日

【薄明かりの絵画】ナザレ派

【ナザレ派の概要】
ナザレ派は、ドイツ・ロマン主義の一つとみなされます。1809年に、ウィーン美術アカデミーの学生6人が、アカデミズムに反発し、中世の画家ギルドに倣って「聖ルカ兄弟団」を結成したことに始まります。翌年、6人のうちヨハン・フリードリヒ・オーファーベック、フランツ・プフォル(24歳で夭逝)、ルートヴィッヒ・フォーゲルらがローマに移りました。このグループに、ペーター・コルネリウス、フリードリッヒ・シャドウらが加わりました。ローマでは打ち捨てられた僧院で共同生活をし、中世のアトリエを再現しようとしました。しかし、1830年までに、オーファーベック以外のメンバー全員がドイツ語圏に戻り、解散しました。アカデミズムへの反発から発生したグループですが、ペーター・コルネリウスと、フリードリッヒ・シャドウはデュッセルドルフやミュンヘンのアカデミーの教授となり、ナザレ派はドイツのアカデミズムに浸透しました。

【特徴】
ナザレ派の絵画には、以下のような特徴が見られます。
  • 精神的な価値を表現した
  • 近年の芸術は、表面的で技巧的であるとして批判し、中世や初期ルネサンスにインスピレーションを求める
  • 宗教的主題を好んだ
  • フレスコ画により名声を得た
中世や初期ルネサンスにインスピレーションを求めた点は、フランスのリヨン派、イギリスのラファエル前派に通じます。

オーファーベック「オリーブの丘のキリスト」1833年頃、ハンブルク美術館
 【オーファーベック】
ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック(1789-1869)は、ナザレ派の指導者的存在でした。他のメンバーがドイツ語圏へ戻ってからも60年間近くローマに住みました。キリスト教芸術の精神性が崩壊したと考えて、ラファエロ以前の初期ルネサンス、特にペルジーノやピントリッキオを手本としました。ラファエロにそっくりな聖母子像を描いています。イタリアの貴族や名士の館のフレスコ画を描き、古いフレスコ画の修復も行いました。

ラファエル前派と相通じると指摘されるナザレ派ですが、それは当時流行していた芸術様式への反発や、中世〜初期ルネサンスを理想としていた、という思想の上でのことであって、私は画風が似ているとは思いません。ラファエル前派のJ.E.ミレーや、W.H.ハントは「クワトロセント(中世後期〜初期ルネサンス)」様式を研究し、取り入れていたそうですが、作品は、ラファエル前派らしい、ユニークなものであって、「ルネサンスっぽい」と思ったことはありません。一方、キリスト教の主題を描いたナザレ派の作品は、言われないと「ルネサンス?」と思ってしまうものがあるほどで、両派のアプローチには違いがあると思います。

シャドウ「ミニョン」1828年、ライプツィヒ造形美術館
シャドウ「賢い乙女たちと愚かな乙女たち(部分)」1842年頃、シュテーデル美術館

【ナザレ派からアカデミズムへ】
と書いた端から、シャドウの「ミニヨン」はルネサンスよりもラファエル前派的な一枚と思います。フリードリッヒ・ヴィルヘルム・シャドウ(1789-1862)はベルリンに生まれ、ナザレ派に参加してローマへ行きました。ローマでは、オファーベックとともにフレスコ画の仕事もしましたが、1819年にはベルリン・アカデミーの教授に、26年にデュッセルドルフ・アカデミーの学長に就任しました。シャドウは、画家としてよりも教師として優れている、と言われます。1830,40年代に、シャドウの指導下、デュッセルドルフ・アカデミーに学んだ芸術家をデュッセルドルフ派といい、その数4,000人ほどにも及びます。アメリカからの留学生も多く、イーストマン・ジョンソンやウィリアム・モリス・ハントがおり、ハドソン川派にも大きな影響を与えました。ただし、その後自然主義が台頭し、その流れにより、59年には、シャドウは学長退任を余儀なくされました。デュッセルドルフ派は、細密に描かれた風景の中、宗教的・寓意的な主題を描いているのが特徴的です。

レオポルト・クペルヴィーザー「三賢者の旅」1825年
ヨーゼフ・ヘンペル「天国への階段(ヤコブの夢)」1855年

レオンハルトショフ「聖セシリアの死」1821年、ベルヴェデーレ美術館
【周辺の画家】
聖ルカ兄弟団を組織してローマの僧院に暮らした、オーファーベックを中心とする一連の画家をナザレ派と称しますが、その影響を受けたドイツ・オーストリア出身の画家が多くいます。

例えば、レオポルト・クペルヴィーザー(1796-1862)とヨーゼフ・ヘンペル(1800-71)はウィーンのアカデミーの学生で、アカデミズムに反発し、1824年にローマへ旅行しました。直接の交流の有無は不明ですが、ローマでナザレ派の影響を受けるようになりました。

「三賢者の旅」の色合いがどこまで実物に近いか分かりませんが、空の青い色が印象的です。ローマへ旅行した頃に描かれた作品のようです。クペルヴィーザーの後年の作品は、宗教画がほとんどです。幼児キリストが天使達とシーソーで遊んでいるがかわいらしいです。

ヨーゼフ・ヘンペルは、これまでにも何度か取り上げたヤコブの夢を題材としています。左右対称の階段や、遠くの方に淡い色彩で描かれている天使たちが、ルネサンス風だと思います。眠るヤコブと、夢の世界が切り離されていて、後者はほとんど陰影がなく、中央から強い光で照らしているかのようです。これも天上的な光の表現なのだろうと思います。

ヨハン・レオンハルトショフ(1795-1822)はウィーンのアカデミーに学び、ナザレ派の影響を受けました。イタリアに何度か旅行し、才能を認められてローマ教皇の肖像画を描いて友人たちから「小ラファエル」と仇名されるほどでしたが、肺結核に感染し、恋人にも捨てられて、27歳で亡くなりました。

なお、ナザレ派と、その影響を受けた画家を区別するため、最初の投稿から編集しております。ご指摘くださった方、ありがとうございました。

2014年8月12日火曜日

【薄明かりの絵画】吟遊詩人様式とリヨン派


リシャール「オルレアン公ルイの死を悼むミラノのヴァランティーヌ」
【吟遊詩人様式の特徴】
「吟遊詩人様式」は、 1802年に、フルーリー・フランソワ・リシャールの「オルレアン公ルイの死を悼むミラノのヴァランティーヌ」がサロンに展示されたことに端を発します。特定の画家集団を「吟遊詩人派」というわけではなく、以下の特徴を持つ作品について、「吟遊詩人様式」というようです。
  • なめらかなタッチの歴史画
  • 緻密な細部描写
  • ドラマチックではなく、静かで親密なシーンを描く
  • 絵のサイズは小さめ
これらの特徴は、オランダ黄金期より影響を受けています。フランスが中心で、リシャールの他、アンリ・ルヴォワルなどがいます。ベルギーのHenri Leysやイギリスのリチャード・ボニントンも吟遊詩人様式の歴史画をのこしています。吟遊詩人様式は、2月革命の起こった1848年にはほぼ終了しましたが、その後、19世紀を通じてアカデミズムに浸透しました。

シャヴァンヌ「夢」1883年、ウォルターズ美術館

シャヴァンヌ「パリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」、1898年、パンテオン
【リヨン派】
吟遊詩人様式の絵を描いたピエール・ルヴォワルが開始した、ポール・シュナヴァール周辺の画家をリヨン派と称します。以下のような特徴があります。
  • 哲学的な道義や、宗教的な主題を好む
  •  リヨンの啓蒙主義思想や、神秘主義、フリーメーソン思想への傾倒
  • 美術史上、ラファエル前派の先駆者と言える。特に、中世への興味、史実の正確な再現を目指したこと、柔らかい光に照らされた、ややぎこちないポーズの人物を描いた点が共通している(交流があったわけではない)。
1830年代に隆盛を迎え、51年にリヨン美術館が創立されて多くの作品が収められました。象徴主義の画家であるピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(1824-98)はリヨン出身で、地元への愛着は薄かったようですが、リヨン美術館の大きな壁画を描いています。リヨン派の一人と見なされ、1898年のシャヴァンヌの死亡を以って、リヨン派は終焉したとされます。なお、リヨン派は独自の性格を持つわけではなく、地元の特徴を形成してアピールしようとする政治的な意向により作り上げられたようなものだ、とする見解もあるようです。

ルイ・ジャンモ「『魂の詩』より 父の家」1854年、リヨン美術館

ルイ・ジャンモ「『魂の詩』より 黄金の階段」1854年、リヨン美術館

【ルイ・ジャンモ】 
ルイ・ジャンモ(1814-92)はリヨンの、カトリック信仰の篤い一家に生まれ、同地のアカデミーで学びました。アカデミーで一等賞を得て、パリに出るとアングルに師事しました。「魂の詩」の一部はアングルの「オシアン」の影響を受けている旨、twitterのお友達にお教えいただきました。大画面で、宗教的主題の絵を描き、ボードレールやテオフィル・ゴーティエ、画家ではシャヴァンヌ、ルドン、モーリス・ドニに賞賛されました。彼の主要な作品は18の油彩画と16の素描から成る、連作「魂の詩」で、リヨン美術館に所蔵されています。ジャンモは、ロマン主義と象徴主義の過渡期の画家とされます。アングル様式の入念に仕上げられた画面は、神秘主義の風味もあり、ドイツのナザレ派や、イギリスのラファエル前派の作品と呼応します。後期ラファエル前派のバーン・ジョーンズは、ジャンモと同様に「黄金の階段」のタイトルの作品を描いています。ジャンモの方は、ヤコブの夢を思わせますが、バーン・ジョーンズの方は特定のシーンを意図したり、深い意味を込めたわけではなく、単に美しい光景を表現しようとしたようです。雰囲気としては似ているように思います。「魂の詩」はこちらから見られます。とても美しいので、ぜひ覗いてみてください。

バーン・ジョーンズ「黄金の階段」1880年、テイト美術館